トップページに戻る
  少年リスト   映画リスト(邦題順)   映画リスト(国別・原題)  映画リスト(年代順)

The Childhood of a Leader シークレット・オブ・モンスター

イギリス映画 (2015)

トム・スウィート(Tom Sweet)が 原題『The Childhood of a Leader(独裁者の少年時代)』のタイトル・ロールを演じる歴史サイコ・ドラマ。主要な受賞はヴェネツィア国際映画祭の新人監督賞だけだが、日本ではなぜか高く評価されるケースが多い。IMDbは6.2、Rotten Tomatoesは88%(53/60)と評価は分かれている。初監督作なのに、擬似歴史物として非常にセンセーショーナルという点は素晴らしいが、完成度が高くない点で評価が分かれるのであろう。先回紹介した『The White King(白のキング)』(2016)と対比すると、①イギリス映画、②ほぼ同額の製作費(3.5億円ほどの低予算映画)、③ハンガリーでの撮影、④独裁国家になる前段階を描いたか、なった後の弊害を描いたかの違いはあるが、狂気の世界を描いている、⑤そして、少年の視点で描いている、など類似点が多い。それが相次いで映画化されたことは、何かのサインなのか? 

映画の背景は、第一次世界大戦でドイツが敗北し、皇帝ヴィルヘルム2世の亡命を経て、1918年11月11日にエーベルト臨時政府が休戦協定を結んでから、翌19年6月28日にヴェルサイユ条約が締結される直後まで。場所は、パリからかなり離れた田舎。アメリカ側の条約締結担当者として、ロバート・ランシング国務長官(1915-20)の補佐役としてフランスに派遣された父、そして、同行して短期滞在することになった母と一人息子のプレスコットの3人の物語。本題に入る前に一言。父の職業は、日本公開時には、「国務次官補」とされていたが、これは明らかな間違い。アメリカの “Assistant Secretary of State” は1853-1913年までは国務長官に告ぐNo.2、1913-1924年までは、新たに設けられた参事官に次ぐNo.3。現在の国務次官が制度として発足し、着任するのは1919年7月1日。だから、1918年12月~1919年6月まで条約成立に向けて努力した父の階級は、名称は異なるが国務次官に相当する。私がこのことに気付いたのは、今回の解説にあたり、最も参考にしたジョンズ・ホプキンズ大学のクリーガー教養学部の「映画とメディア」というプログラムに取り上げられた詳細な分析を参考にしたためだ。そこでは、「この映画は、国を二分した南北戦争以来、民主主義に対する最も危険な兆候の見えるアメリカにとって、時宜を得たものと言える。独裁的な権威主義、過度の情報操作が現れている…」と、アメリカの現状にも言及されている。

さて、映画のメインテーマは、なぜ、1人の少年が大人になった時、独裁者になってしまったのか? どのような体験が彼を蝕んでいったのか、という疑問に1つの回答を与えることにある。国務省のNO.3の父は、重責と多忙に追われ、息子のことなど構っておれない。あまりの態度の悪さにイライラした時は、妻に躾を丸投げするか、頭にきて叩くだけで、自ら話し合おうとする気はない。母は、ストラスブール(1871~1919年はドイツ帝国の領土内)の出身で、どのような家柄かは不明だが、現在は、「虚栄心が強く、召使に威張り散らし、信仰心が異様に強い」女性で、息子に対しては、「有無を言わせず」「甘やかす」の二面性を持っている。両親が これでは、プレスコットがまともに育つはずがない。プレスコットは「神経質、両性的」、「生意気、不作法、むかつく」が合体したような少年。金髪を首筋まで長く伸ばし、着ている服も、当時の標準的な上流の子弟に比べ少女的だ。ただ、それを両親が直接咎めるシーンはない。ここに、プレスコットがフランスで出会った2人の女性が大きく関わってくる。1人はプレスコットと仲良しで、いつも乳母のように庇ってくれる老いた召使のモナ。モナは、母の言いつけに背いてプレスコットに食べさせたことで解雇され、プレスコットは母に対し強い怒りを抱く。もう1人は、若く美しいフランス語の家庭教師のアダ。思春期直前のプレスコットは、アダが好きになるが、父との間に怪しい関係があると感じたことで、憧れは裏切りへの憎しみとなり、母に解雇させる。この「人を操る能力」は、その後も、①父が、条約の締結推進のために館に関係者を呼んで大切な議論をしている際、全裸の上からガウンをはおった姿で現れたり、②父に叩かれた際に腕をケガした際、治っても「ケガさせられた」と主張するため、ワザと三角巾を付けたままにするシーンで発揮される。こうした「技術」は、アダから教材として渡されたイソップ寓話の『ねずみの恩返し』から学んだ教訓を「生かして」、人心をつかむことにも悪用され、プレスコットは最終的に独裁者に登りつめる原動力となる。

ここで、その『ねずみの恩返し』についてコメント。教訓の「Little friends may prove great friends」には、いろいろなニュアンスがある。子供向けの寓話としての解釈は、文字通り、「小さな友達こそが偉大な友となる」というものだが、この言葉がプレスコットを唸らせたのではない。プレスコットの頭にインプットされたのは、「ちっぽけな人が偉大な友となることもある」という別訳であろう。2つとも似ているが、後者は拡大解釈の余地がある。この言葉を使えば、人々を思い通りに操ることができるのだ。すなわち、「ちっぽけな人」とは国民、「偉大な友」とはプレスコット帝国での栄達。まさにファシスト的。ヒットラーの使った手法だ。プレスコットはライオン、国民はネズミなのだ。このことは、海外の複数のレビューで指摘されている〔プレスコット帝国の公式文書の紋章はライオン〕。ただ、私は、このプレスコット帝国自体が、どうしても腑に落ちない。ヒットラー、スターリン、ムッソリーニ、フランコなどの独裁者は、何れも、同じ民族の中で人気を集めて成り上がっていった。アメリカ人のプレスコットが、なぜヨーロッパで独裁者になれるのか? これは、どう考えてもありえない。映画の中で、プレスコットは英語を話し、母は、フランス語を流暢に話し、村人との会話はすべてフランス語。そして、一箇所だけドイツ語を話すところもある。これほど「言語」にこだわった映画なのに、最後のプレスコット帝国での会話はすべて英語。これも、非常に嘘っぽい。この映画は4部構成になっているが、いっそ最後の「新しい時代」がない方が、すっきりしたのにと思う。

この映画の日本公開に際し、「パズル」「謎解き」のような宣伝が目立った。このような観方をしているのは日本だけなのだが、折角なので、紹介と解説を加えよう。「この映画を読み解く鍵」として、伏線が大げさに紹介した内容で、9つの鍵から構成されている。①教会に向けて石を投げるシーン。これはムッソリーニの子供時代の実話からヒントを得たと書いてある。それはいいのだが、プレスコットの母は敬虔なカトリック教徒なので、息子の卑劣な行為をなぜ強く叱らなかったのかがよく分からない〔増長させる端緒となった〕②悪夢のシーンで見る「円形の天窓」と「エレベーター」。独裁者となってからも登場するので、将来の夢を見たという可能性が指摘されている。それは賛成だが、「円形の天窓」ではなく「ガラスのドーム天井」、「エレベーター」ではなく「パーテルノステル」。後者は、とても面白く、常に秒速0.3メートルで動いているループ循環式の昇降装置。従って、扉はない。降りたい階が近付いたら、降りる。待つ時間はゼロ。しかし、1つの箱に1人しか乗れない。ただ、箱は連続しているのですぐ来るし、左右2つの出入り口で進行方向が逆。③アダとの散歩の際の奇妙なロングショット。プレスコットが世界の中心だと言いたいのだそうだが、何度観ても「ただ変」なだけ。④プレスコットが長い髪を切らない。独裁者になってからのプレスコットが丸坊主であることへの啓示とされる。ただ、評論家の多くはプレスコットの少年時代を「両性的」と評しており、その嗜好がなぜ変化したのかは不明。⑤省略。⑥パーティで、初対面の婦人に男の子と認識される。これに対し、監督は、初めて「男」と認識されたことは重要だと語っている。しかし、本当に監督が言ったのだろうか? 私は強く疑問に思う。なぜなら、婦人の言葉は「Hello there, little one」。“boy” ではなく “little one(おちびちゃん)”。この言葉には、男女を区別する意味はヒトカケラもない。日本語の字幕は「こんにちは、坊や」となっているが、これを見た日本人の広告マンがでっち上げたのでは? と思ってしまう。⑦ロウソクの火がカーテンに燃え移る。様々な可能性と書かれている。しかし、火はすぐに消えてしまうので、私にはと同じ、無意味なだけのシーン。⑧大人のプレスコットは、チャールズとの一人二役。これは、第4部の副題が「or Prescott, the bastard(あるいは、私生児プレスコット)」となっていることから明らかなように、チャールズ(両親の友人でジャーナリスト)がプレスコットの本当の父親であることを明白に暗示しているあらすじの最後に、別の見解もつけておいた〕⑨ライオンが独裁国家のシンボル。無回答。これについては、上で述べた。

トム・スウィートは、映画出演時10歳。演技が巧いかどうかはよく分からない。この監督の悪い癖で、ほとんどのシーンが背中からの映像のみ。顔のアップもなく、全体に暗いので、4つの「リスト」に添付する写真がなくて困ったほど。そして、日本の多くのサイトで判で押したように書いてある「美少年」というのは全くの誤解。髪が長いから少女と間違えられるという設定だからといって、顔は少女とは似ても似つかない。参考までに、少年のトップ・モデルの1人の写真を右に紹介しよう。ブロンドの肩まである髪という点では同じだ。しかし、顔立ちは非のつけようがない。俳優とモデルの違いがはっきりと分かる。


あらすじ

第1部の「最初の癇癪〔Tantrum〕」の標題が表示される前に、短いシーンが挿入される。真っ暗な屋外から、窓越しに室内を撮った映像で、不調和音だけで構成される耳障りな音が流れる中、子供たちが1人ずつ順番に窓の前を通っていく。そして、天使の羽を付けた少年(プレスコット)が最後に現れて、じっと立っている(1枚目の写真)。場所は教会。クリスマスに村の子供たちが演じる降誕劇のリハーサルだ。第1部の標題が入ると、実際の練習シーンへと移行する。ナレータ役の少年が、天使が羊飼いの前に現われたと口上した後、プレスコットがたどたどしいフランス語でルカ伝2.10~12の台詞を言う。ところどころ間違えたり、抜かしたり、言い直したりする。なぜ、外国人でフランス語もほとんど話せないプレスコットに、このような重要な役をさせたのだろう? リハーサルが終わり、教会の前には子供たちを迎えにきた大人達が待っている。プレスコットは羽を外しただけの真っ白な天使の衣装のまま、教会の外にそっと出て行くと、村人に向かって石を投げ始める(2枚目の写真、矢印は石)。村人は、すぐ、「石を投げている悪たれ」の居所を突き止め(3枚目の写真)、「こら」と向かってくるので、プレスコットは慌てて逃げ出す。それにしても、12月はかなり寒いはずなので、こんな薄着で よく凍えないものだ。真っ暗な森の中を逃げるプレスコット。しかし、何かにつまづいて倒れたところを村人に捕まる。ケガをしているので、抱えられて連れ戻される。その時、母が「私の息子よ。大丈夫なの?」と呼びかける。英語なので、村人が分かったとは思えない。そばまで来た母は、フランス語で「C'est mon fils. Ça va?」と言い直し、「大丈夫だ〔Ça va aller〕」と返事をもらう。因みに、“サヴァ(ça va)” はすごくよく使われるフランス語だ〔第一次大戦当時も使われていたかどうかは知らない〕
  
  
  

プレスコットの屋敷では、父と友人のチャールズがビリヤードをしながら、終わったばかりの第一次大戦について議論している。父はアメリカの国務省のNo.3なので、外交の専門家。それに対し、チャールズはジャーナリスト。チャールズが史上初めての凄惨な大戦争のことを、人類の「さが」とみなした記事を書いたため父から反論される。ここでのチャールズの台詞は、イギリスのエッセイスト、ジョン・ファウルズ(John Fowles、1926-2005)の『The Magus』(1965)の丸写し。原文はヒットラーとドイツ国民の不作為について述べたもの。「人間とは、取るに足りない存在だ」というのが本旨。「偽ってはならないもの、それは自分自身なのに。こうも言える。ヒットラーは、自らを偽らなかったと。そう。彼は偽らなかった。代わりに、何百万ものドイツ人が自らを偽ったのだ。それこそが悲劇だ。一人では 悪魔になれる度胸などない。そうではなく、何百万の人に、正しいことをする勇気がなかったのだ〔The human race is unimportant. It is the self that must not be betrayed. I suppose one could say that Hitler didn't betray his self. You are right. He did not. But millions of Germans did betray their selves. That was the tragedy. Not that one man had the courage to be evil. But that millions had not the courage to be good.〕」。この部分の日本語字幕を紹介しよう。「人間は重要ではない。自己を裏切るな。ピラトは、自己を裏切らなかったと言えるか? ピラト個人の裏切りではなく、無数の民衆が 自己を裏切ったこと。これが 戦争の悲劇だ。一人では悪魔になれなくても、大勢でなら 容易に善を忘れられる」。ヒットラーはまだ存在していないので、代わりに、キリストの処刑を命じたピラトを用いているドイツ人も削除〕赤字は誤訳に近いし、「裏切り」という訳も適切ではない。2人は、この後、酒を飲みながら雑談に入る。そこでは、①家が広すぎ、パリから遠すぎる、②家はかつて義姉のもので、開戦と同時に避難して戻る意志は不明、③妻はストラスブール〔ドイツ帝国〕で子供時代を過した、などが語られる。その時、プレスコットを連れた母が帰宅する。「この子、何も言わないけど、事故だった」。「大丈夫か?」。「元気よ」。父は、チャールズに「今夜は、教会で、仕上げの舞台稽古があった」と説明する。一方、母は、息子が転んでケガをしたので、フランス式の銅製の傾斜タブに入れて洗っている(1枚目の写真)。「なぜ あんなことしたの? ケガをさせようとするなんて。レドゥー神父や新しいお友達の前で、恥ずかしいでしょ」。「僕たちの友達じゃない」〔“my” ではなく “our” を使っている〕。「今は違っても、そうなるわ」。「僕より、愛してるんだ」。「この村の人たちを?」。「そう」。「どういう意味?」。プレスコットが、母から愛されていないと感じる重要な場面。演劇に参加させられたのも、彼の意志ではなく、母の強い希望だったことが窺える。ベッドに移されたプレスコットは、母から、「寝る前の祈り」を唱えるよう求められる(2枚目の写真)。しかし、彼は、「聖フランシスコの平和の祈り」の最初の1行を口にしただけで、後は、「頭の中で唱えていい?」と言って、唱えるのをサボタージュする。この部分について、「映画とメディア」〔Filmmaker Magazineにも転用〕の評では、「生まれようとする有害な感情〔nascent poison〕」という分析をしている。そして、これが大きく増長した結果が、第3部の最後における「侮辱的な拒絶」になるのだと。そういう意味では重要なシーンだ。母は、息子を寝かしつけると、チャールズに会いに行く。会ってすぐ、チャールズは母の両頬にキスすることから、親密な仲であることが分かる。このことは、チャールズが母の夫について述べる時、「君の夫」という言い方をすることからも、元々、チャールズと母が友達で〔実際は、プレスコットの真の父〕、その後、母の夫と知り合ったことを示している。チャールズの写真が他にないので、最後に登場するプレスコットと比較するためにも、3人での会話のシーン(3枚目の写真)を最後に付ける。会話の内容に重要なものは何もない。ただ、別れ際にチャールズが、母に、ドイツ語で「さようなら」と言い、母もドイツ語で、「遅いから気をつけて」と答える。なぜ、チャールズがドイツ語を使ったのかは分からない。母にとっては母国でも、それを自慢にしているとは思えないからだ。夫も、敵国との認識があるので、即座に「恥ずべき〔vile〕言葉だ」と不快感を示す。
  
  
  

プレスコットは、夢を見る。その中で現れる建物は、将来、彼が独裁者になってから見るものと同じ。「パーテルノステル」(1枚目の写真、左側は上へ、右側は下へ動いている)が映り、次いで、ガラスのドームがくどいほど映される。独裁者を迎えるシーンはブダペストの中央高台に聳えるブダ城で撮られたことは分かっているが、このガラスのドームがどこかは分からなかった〔ブダペストにはガラスのドームが結構あり、しかも、もっと美しい〕。父母がトランプをしていると、プレスコットが、現れ、母に向かって 「悪夢を見て、おねしょしちゃった」と言う(2枚目の写真)。「どこにも お母様がいなかったから」。この段階では、まだ母への依存度が高い。「着てる物を替えなさい。後で、ベッドを直しに行くから」。プレスコットは、傾斜タブに入って1人で洗っている(3枚目の写真)。その横では、母が新しいシーツをかけようと拡げている。プレスコットは鼻歌交じりに体を洗っている。曲は、ベートーベンの交響曲第7番の第2楽章だが、それにどんな意味があるのかは分からない。
  
  
  

朝。プレスコットはベッドの上で飛び跳ねている。そこに、この屋敷の主のような女中のモナがノックなしで入ってくる。モナは、先代の家族に17年間も仕えてきた独身の年老いた女性。「ハロー。降りましょうね、坊ちゃま〔Sors du lit, mie chérie〕」と、一部英語を交え、フランス語でにこやかに話しかける(1枚目の写真)。「溶けちゃう前に雪を見に行きましょ」と言って、プレスコットを抱き締め、「寂しかった?」と訊く。プレスコットがこの館にきてから それほど時間が経っているとは思えないが、2人はすごく仲良しだ。次のシーンで、プレスコットは、神父に昨夜のことを謝るため、母に連れられて教会に行く。プレスコットの昨夜の薄着が信じられないくらい、2人は厚着をしている。モナと話と違い、雪はどこにも残っていない。司祭館に着くと、2人は、神父の部屋に招じ入れられる。神父の最初の言葉は、「ああ、これが悪戯坊主か」。その後で母と挨拶。神父が、「家族の皆さんは、落ち着かれましたか?」と訊き、さらに、母が、「使用人が足りません。家が大きいものですから」と返事をし、それに対して求人の相談先を教える。引っ越して間もないような会話だが、プレスコットの劇の練習は最終段階に入っているので、違和感がある。神父は、さらに、ミサの時に夫を見たことがないと伝える。母は。父の肩書きを言い、パリで働いているので家を空けることが多いと弁解する(2枚目の写真)。この肩書きは、神父に多大な感銘を与える。こうした一連の前置きが終わった後で、母は、「昨夜のリハーサルでの出来事のお詫びに、息子ともども伺いました」と切り出す。神父は、「心配しているようだが、心配は要らない」とプレスコットに話しかけ、母がそれを英訳する。そして、いよいよ、石を投げたことに言及し、「本当かね?」と訊く。「はい〔Oui〕」。一応フランス語で答えたので、神父は「私の言っていることが分かるかな?」と尋ねる。「時々〔Parfois〕」。「劇に出ている子供たちの誰かに腹を立てたのかね? それとも、お母さんに腹を立てた?」。プレスコットは黙っている。「返事をしてくれるかな?」。沈黙。「返事をしなさい」。返事がないので、母は「質問の意味が分かってるの?」と訊く。プレスコットは、ようやく、嫌な顔をして「Yes」と母に言う。神父が、「私に謝罪してもらえるかな?」と言うと、「僕、この人には、何もしてない」と神父を睨むように母に答える(3枚目の写真)。英語なので、神父には分からない。「彼は、何と?」。「あなたには何もしていないと、言っています」。こうした態度を受け、神父は、ミサの後で参加者全員に直接謝るよう指示する。
  
  
  

2人が館に帰ると、フランス語を教えるアダがやってくる。母:「この一週間大変だったわ。あの子も会えて喜ぶでしょう」。アダは劇の台詞も教えているので、この様子だと、この村に来てから少なくとも1ヶ月は経っていそうだ〔状況がうまく噛み合わない〕。階段の下でしばらく立ち話をした後、息子の部屋に上がって行こうとすると、プレスコットが下りてくる(途中で、盗み聞きをしていた)。母:「部屋で遊んでると思ってたわ」。「今日は、アダ」。アダは、母に訊かれ、ここで教えると返事をする。母が階段を上がって自室に引き取ると、アダはプレスコットの顔を指しながら、フランス語で言わせる。鼻、耳、目まできて、次にアダが睫毛を触ったので、思わず笑う(1枚目の写真)。この映画の中で、プレスコットが笑顔を見せるのは、ここだけだ。勉強が終わると、2人は散歩に出かける。冬枯れの風景の中を歩く2人。いろいろと話した後、アダが、「水曜の台詞の練習でもしましょうか?」と訊くと、プレスコットは突然 足を止め、畑の方をじっと見る。その2人を超広角レンズがわざと周辺のピントをボカして撮影する(2枚目の写真)。解説で述べた「鍵」では、脚本に「彼は風景を見つめていて、風景が彼を見つめ返している」と書かれているとされ、「彼が世界の中心」だとのコメントがある。この映像は10秒間流れる。私には、無意味なだけのシーンだった。アダは、唐突に、「『切る』って言葉知ってる?〔Tu connais le mot "couper"?〕」と訊く。「知らない」。「こんな風に使うのよ… 髪を切る」と言いながらプレスコットの髪に触ると、彼はアダの手を振り切り、「止めろ!」と命じる(3枚目の写真)。「くすぐったかった?」。「違う」。「お母様が髪を長くしろと?」。「違う」。「男の子なんだから切りなさいよ。りりしくなるわ」。怒ったプレスコットは、劇の「天使」の台詞を呟きながら足早に歩き出す。プレスコットの髪に対する強い執着心が分かるシーンだ。
  
  
  

クリスマスの日、教会でミサが行われている。この日は、息子の劇もあるので、父もミサに出席している。フランス語が全く分からない父にとっては、長い時間だったであろう。ミサが終わると降誕劇。劇のシーンはない。劇が終わると、教会の扉から次々に教区民が出てくる。扉の脇には、神父とプレスコットが並んで立っている。神父は村人に声をかけ、プレスコットは一人一人に「石を投げてごめんなさい〔I'm sorry for throwing rocks at you〕」と声をかけ、しばらくすると、「ごめんなさい〔Je suis désolé〕」と短いフランス語に切り替える。延々と続く謝罪に、父は(神父のやり方に)イライラする。たまたま、プレスコットが英語で言った時、その場に居合わせた女性が、「彼女、何を謝ってるんです?〔Pour quoi s'excuse-t-elle?〕」と神父に尋ねる。この疑問文では、“elle” と、女性名詞を使っている。ただ、プレスコットは、この段階ではそれに気付かない。神父に、「先週のリハーサルでちょっとした事があってね」と言われ、婦人は、プレスコットに直接、「優しいお嬢ちゃん〔petite fille。後悔してるのね」と声をかける。今度は、プレスコットにも “fille” を聞き取れた。だから、「僕は女の子じゃない〔Je ne suis pas une fille」と反論する(1枚目の写真)。それから先は、泣いてしまい、謝罪の言葉は出て来ない。しかし、母の手前、逃げ出すわけにはいかない。だから、帰宅が許されると、自分の部屋に一目散に駆け上がり、ドアを開けると床に屈みこんで吐く。心配して後を追って来たモナが、「愛しい坊や」と言いながら背をさする(2枚目の写真、矢印は吐瀉物)。ここで第1部は終わる。軽い「癇癪」による投石事件の結末は、娘と言われたことで、新たな「癇癪」を引き起こすが、それを発憤できなかったので、悔し涙に終わる。
  
  

ここから、第2部の「第二の癇癪」が始まる。第1部が1918年の12月25日までだったのに対し、第2部は1919年に入り、6月28日のヴェルサイユ条約締結の数日前までの半年間。この間に、プレスコットは別人、言葉を変えれば、怪物になってゆく。最初のシーンは、プレスコットとアダ。かなり薄着なので、一気に春が近づいている。アダは、プレスコットに『ねずみの恩返し』を読ませている(1枚目の写真)。かなりたどたどしい読み方で、数ヶ月も経つのにこの程度かと呆れるほどだ。最初の数行を読んだところで、「もう無理」と言ってやめてしまう。アダは、「できるわよ。先に読むわね」と言って、その先をずっと読んでいく。文字と、アダの発音とを比べながら勉強させるためにやった行為なのだが、プレスコットの目線は、薄いシャツの下から透けて見える 「ブラジャーを付けていないアダの乳首」に釘付けになっている。それは映画の意図として分かるのだが、何もシャツだけ(2枚目の写真、矢印は乳首)を漫然と40秒も映し続けるのはどうかと思う。プレスコットの顔も映して欲しかった。読み終わると、アダは、最後の「教訓」の部分だけプレスコットに読ませる。「On a souvent besoin d'un plus petit que soi.」。そして、英語に訳すと「小さな友達こそが偉大な友となる〔Little friends may prove great friends〕」なのだと教える。アダが、出て行った後、プレスコットは真剣な顔をして考える(3枚目の写真)。この時に、先ほどの「教訓」の意味をいろいろと考え、「ちっぽけな人が偉大な友となることもある」という言葉に到達したのかもしれない。前者の解釈だと、「偉くなってからも(ライオンになっても)、ネズミのことは忘れない」という立派な人間を理想とする。しかし、後者だと、「ちっぽけなネズミも、偉いライオンの友になれるかもしれない」と懐柔すれば、独裁体制に到達できるのだ。
  
  
  

しばらく経ってもアダが戻って来ないので、プレスコットは部屋を出る(1枚目の写真)。向かう先は、写真の左手にある階段で、そこから厨房に下りていける。というのも、先ほどの勉強の最後に、プレスコットが「お腹空いた」と言い、アダが、コックに訊いて来ると言って、出て行ったなり戻って来ないからだ。プレスコットが階段を下り始めると、父の部屋からアダの声が聞こえる。短いが笑い声も。何だろうと思ったプレスコットは、もう一度階段を上がって、父の部屋を覗く。そこには、父とアダが一緒にいた(2枚目の写真)。父:「やあ、お前か」。アダ:「いけない、空腹だったのよね。ごちそう頼むのすっかり忘れてた」。プレスコット:「家にいたなんて知らなかった」。「ついさっき、パリから戻ったところだ。父様に抱きつかないのか?」。この場面、アダは 帰宅した父に呼びとめられ、勉強の進捗状態を訊かれただけなのかもしれない。あるいは、2人の間にはもっと深い関係が続いていたのかもしれない。プレスコットは、父の言葉に反応せず、黙って立ち去ると、階段を下りていく。このシーンも長い。25秒といえば短いようだが、階段を淡々と下りて行くプレスコットの後姿を追うだけなので長く感じる〔顔は執拗に映さない〕。次は、その日の夕食のシーン。食堂のテーブルには3人が接近して座っている。母が、食事の前の祈りを唱え、父は真っ先に食べ始める。しかし、プレスコットは何もしない。母:「お腹空いてないの?」。父:「空腹だと言ってただろ?」。「これ、嫌いだ。ここの料理は全部」。父は、好きではないが、調理人に悪いから全部食べると答える。ということは、料理はやはり不味いのだ。プレスコットは話題を巧みにパリに変え、その間にこっそり口に入れたものを捨てようとするが(3枚目の写真、矢印は食べ物)、目ざとい母に、「口に戻しなさい」と注意される。そこで、今度は、「今日、アダは、お父様にフランス語を教えてたの?」と尋ねる。プレスコットは、もう「状況の操縦」を開始している。これは一種の爆弾発言だ。父:「違う。謝礼を渡していた」。母:「それ月曜でしょ」。「前払いを頼まれた」。母は 「そうだったわ」と言うが、これは、夫の不倫を疑い、息子の前で、言いつくろったとしか思えない。母:「昨日、頼まれたわ」。プレスコットは、料理の皿を自分の前から遠ざける。2人とも何も言わないので、これで巧くいくと思ったのだが…。
  
  
  

母は、プレスコットに自分の皿を持たせて食堂を出ると、モナに、食事が終わるまで一緒にいるよう命じる(1枚目の写真、矢印は料理の残った皿)。「一晩中かかっても構わないわ」。「はい、奥様」。「私は寝室に行くから」。随分勝手な母親だ。プレスコットはともかく、モナにも寝ずに見張れと命じ、自分は寝るのだからひどいものだ。プレスコットの部屋で、2人は向かい合って座っている。彼は頑として食べようとしない。ウトウトしたモナは、「一口食べてもいい?」と言って皿を取り、鼻を近づける。「むかつく」「気持ち悪い」と言うと(2枚目の写真)、中味をゴミ箱に捨てる。そして、「誰にも内緒よ」の意味で、“Do not tell me out” と言う。優しいモナに、プレスコットは抱きつく(3枚目の写真)。モナは、プレスコットがフランスで心を許した唯一人の人物だった。
  
  
  

プレスコットは、館の外で、アダからフランス語を習っている。ただし、アダが「7×9は?」とフランス語で訊き、プレスコットが「63」と英語で答えるので、語学というよりは算数の勉強のように見える。一段落すると、プレスコットはアダの頬を手で触れ〔これは笑顔で歓迎される〕、次いで、手をすっと下げてアダの胸に触る(1枚目の写真、矢印)〔当然、嫌な顔に変わる〕。アダは、手を払いのけながら、「何するの? 良くないことよ」と叱る。さらに、「なぜ、こんなことしたの? 誰に教わったの?」と問い詰める。プレスコットは、「お母様は、いつも僕にさせるけど」と嘘を付く。「そんなはずないわ。謝ってちょうだい」。「僕、悪いことしたの?」。分かってて、こういう質問は白々しい。アダは、「今日は、これでおしまい」と冷たく宣言する。「僕、続けたい」。「いいえ、終わり。他人に不快感を与えた時は、ちゃんと謝りなさい」と席を立つ。プレスコットは、その言葉をそのまま使い、「不快感を与えてごめんなさい」と言うが、あまり謝っているようには見えない(2枚目の写真)。アダは、「手を出して」と命じ、2回叩く。これで、プレスコットのアダに対する甘い思慕の想いは完全に終わった。
  
  

父は、ずっとパリで仕事なので、母と2人だけの夕食が続く。食事の前に、2人で「聖フランシスコの平和の祈り」を、一説ずつ交互に唱えている。「神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。憎しみのあるところに愛を。いさかいのあるところに赦しを。迷いのあるところに信仰を。誤りのあるところに真理を。絶望のあるところに希望を。闇のあるところに光を。悲しみのあるところに喜びを」(1枚目の写真)。ここからは、母が一人で唱える。「神よ、私に、慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、望ませてください。自分を捨てて初めて自分を見いだし、赦してこそ赦され、死ぬことによってのみ永遠の命に甦ることを、深く悟らせてください」〔日本での祈りと若干違っている〕。プレスコットが後にパーティで暗唱することを期待されたのは、この祈りだと思うので、全文を紹介した。夜になって、プレスコットがベッドに入ると、モナが(母親のように)額にキスし(2枚目の写真)〔プレスコットは目を開けてモナを見ている〕、彼は安らかに眠りにつく。プレスコットには、もう、モナしか残っていない。
  
  

ある日、母とプレスコットが帰宅すると、館の前が車と人でごった返している。夫は、「オルランドと部下が、講和会議を離脱して、ローマに戻ると言い出した。お陰でパリは大混乱。ランシング長官は、替わりにここに来させた。内輪の会議で事態を打開するためだ」と説明する。補足すると、オルランドは、実在の人物で、イタリアの首相、兼、パリ講和会議のイタリア首席全権。イタリアは、領土として南チロルや今のクロアチアの北部を要求したが、後者が拒否されたので怒って引揚げようとした。それを、何とか宥めようというのが館での秘密会議の目的〔イタリアの要求は事実だが、秘密会議はフィション〕。因みに、ドロミテ・アルプスで知られるトレント市を中心とするエリアがイタリア領になったのは、パリ講和会議のお陰。今でも、この地方に行くと、地名はイタリア語とオーストリア語で併記されている。さて、館の中はサポートの手伝いや調理人が入り騒然としている。アダが見つからなくて困ったプレスコットは、会議中の部屋の入口まで行くと、「すみません」と声をかける。全員がプレスコットの方を振り向く。父:「何だ?」。「アダはどこですか?」。他の出席者が、「あなたのお嬢さん?」と父に尋ね、父は「息子です」と打ち消す。プレスコットは「女の子」と間違われたので、下を向き(1枚目の写真)、そして、返事を待たずに立ち去る。間違えた出席者は、父に「申し訳ない。よく見えなかったんです」と謝る。間違えられたのは髪が長いせいなのに、プレスコットは「父の世界」に怒りをぶつけようと決心する。そして、真っ直ぐ自分の部屋に戻る。次のシーン。会議の席で、父が気配を察して部屋の入口を見ると、そこにはプレスコットが立っていた。全裸の上に浴用のガウンをはおり、わざと陰部が見えるように前をはだけている(2枚目の写真)。その間、僅か2秒。父が気付いたと知ったプレスコットはすぐに姿を消す。父に「男を見せる」という嫌がらせのために来たのだから、目的は達せられた。父は、急いで後を追うと、「なぜ、服を着とらん?」と質問するが、プレスコットは腕組みをしたまま黙っている(3枚目の写真)。父が、「モナ!」と呼ぶと、プレスコットも「モナ」とくり返す。父:「部屋に行け」。プレスコット:「部屋に行け」。それだけ言うと、踊りはねるような足取りで去って行った。父は、モナを見つけると、「ここで何してるんだ? 息子が裸で走り回ってるぞ!」と叱りつける。
  
  
  

モナは、さっそくプレスコットの部屋まで上がって行く。ノックして「坊ちゃん、私ですよ」と声をかけても返事がない。ドアを開けようとしても鍵がかかっている。「開けてちょうだい」。それでも返事がないので、ドアノブをガタガタさせる。すると、寝室がすぐ横にある母が、「どうしたの?〔Que se passe-t-il?〕」と言いながら出てくる。「分かりません、奥様。お父上と喧嘩されたようで。服装に問題があったとか。入れてもらえません」。「放っておきなさい。それと、静かにしてちょうだい。偏頭痛がひどいの」(1枚目の写真)。それでも、館の主人から強く命令されているので、モナは食事を持ってくると、「坊ちゃん、私です。いいもの持って来ましたよ」と囁く。ようやくドアが開き、プレスコットは小声で「ありがとう」と皿を受け取る。そして、「明日の朝、また来て」と言った後、「持って来て欲しいものがあるんだけど」と訊く。「いいですよ」(2枚目の写真)〔最後の2つは英語〕
  
  

モナに持って来てもらったものは、『ねずみの恩返し』の載った本だった。一方、秘密会議の方は無事終了する。父は、妻が頭痛で寝ている部屋に来ると、いつ戻れるか分からないと言った後で、「私がいない間に、息子をまともに戻してくれんか。昔のように」と頼む。「やってみるわ〔I'll see to it〕」。夫が出て行くと、妻がやったことは、ベッドの上の紐を引いてモナを呼び、「あの子に、服を来て出てくるまで、何も食べさせないと伝えなさい」と命じただけ。いくら頭痛がひどくても、実にずさんで育児者としては完全に失格だ〔だから、怪物が生まれる〕。一方のプレスコット。伝言を聞いたのかどうかは不明だが、ガウンを着たまま、寝椅子に座って、『ねずみの恩返し』を呼んでいる(1枚目の写真)。いきなりノックの音がして、プレスコットが飛び起きる。「アダよ。ドアを開けてくれる? 今日は勉強の日よ、覚えてる?」。プレスコットは、「僕は忙しい」と断る(2枚目の写真)。そして、「3日したら来て」と付け加える。アダは、それ以上 何も言わずに去って行く。アダは、母にそのことを伝えに行くが、「驚かないわ。じゃあ、3日後に来て。交渉の余地はないでしょ〔No cause to negotiate〕」と、こちらも身も蓋もない。母は、プレスコットの行動の原因として、アダに、何か思い当たることはないかと訊き、「数週間のことを言ってるんだけど」と念を押す。この言葉で、母が、夫とアダの浮気を疑い、かつ、未だに根に持っていることが明らかになる。夜のシーンになり、プレスコットは、部屋の外に聞こえないよう小さな声で 『ねずみの恩返し』を読んでいる(3枚目の写真)。
  
  
  

夜、母はこっそりプレスコットの部屋に近付き、耳をそばだてる。部屋の中では、優しいモナが、食べ物を差し入れしている。「おいしい?〔C'est bon?〕」。「うん、ありがとう」。すると、ドアが急に開く(1枚目の写真)。母は、冷たく、「モナ」と言う、「私は何て命じた?」。「すみません、奥様。食べさせませんと。子供ですから」。「母親の真似事は役目じゃないでしょ。私の指示に従うことが役目のはず。この子に何が最も必要か、知っているのは私なのよ。もう大きいから、道理を分からせる必要があるの」。「奥様、申し訳ありませんでした」。「残念だけど、不十分ね。すぐに私に背き、わざと逆らったじゃないの。これまで気にかけてきたのに、分かれるのは残念ね」。「二度と致しません、奥様」。「とても辛い話だけど、議論の余地はないの。来なさい」。モナは泣きながら部屋を出て行く。それにしても、些細な過失を取り上げて、クビにするというのは、あまりに無神経で過剰な反応で、俄には信じ難い。話がよく理解できなかったプレスコットは、母に、「なぜ泣いてるの?」と尋ねる。母は、「まあ、やっと注目してもらえた?」と皮肉を言った後で、「モナは 出て行くの」と告げる。それを聞いたプレスコットは、今まで見せなかった激しい表情で「No!!」と怒鳴ると(2枚目の写真)、母を突き飛ばして部屋から出し、ドアを思い切りバタンと閉め、ベッドに顔をうずめて泣き出した。この世で、自分のことを想ってくれている唯一の存在が奪われたのだから当然だろう。この怒りは、その後のプレスコットのエキセントリックな行動の原動力となる。
  
  

アダが、約束通り3日後に現れる。「来たわよ」。返事がない。何度もノックし、「ドアを開けてちょうだい」。ドアが開いて、プレスコットが顔を見せる。決して優しい顔ではない。「お母様を連れて来て」(1枚目の写真)。アダに呼ばれて母が部屋に入ってくる。そして、腕を組むと、「言いたいことがあるそうね?」と訊く。「この話、読むから聴いてよ。とっても勉強したんだ」。「私に謝るつもりかと思ったけど」。それには一切答えず、プレスコットは部屋の奥に座ったまま、『ねずみの恩返し』を声を上げて読み始める(2枚目の写真)。練習しただけあって、流暢に読むことができた。謝罪はなかったが、出来が良かったので、母は褒める。アダも相槌を打つ。母は、アダに「よくやったわ」と言い、アダは「何もしてません」と答える。プレスコットは、「続ける? それとも、満足した?」と訊き、もう十分と言われると、「それなら、自分で勉強を続けたい。アダはもう必要ない〔I won't be needing Ada anymore/“I won't need Ada anymore”と同じ意味〕」とアダを切って捨てる(3枚目の写真)。嫌いになったアダをクビにするため、3日かけて童話を勉強するとは、並大抵の執念ではない。
  
  
  

プレスコットは部屋から出て食事を与えられている。しかし、着ているものはガウンのままだ。ここでも、映るのは後姿ばかり。母が、「お友達を作りたくないの?」と訊く。返事はない。「一人で部屋で何してるの?」。「母様は?」。「誰か次の世話役が見つかるまで、私に付き合ってもらうしかないわね」。「いいよ」。ところが、母が「一緒に外に出て、新鮮な空気でも吸いましょうか?」と提案すると、「勉強しないと」と拒否し、ひたすら食べる。母は、我慢できずにプレスコットの前まで来ると、「私達、また お友だちになれると思ったんだけど」と問い詰めるように訊く。プレスコットの返事は、「部屋に行くよ」。「明日はどう?」。「今週はずっと雨だよ」(1枚目の写真、一瞬だけ顔が映る)。「そうなの?」。返事はない。「なぜ、そう思うの?!」。プレスコットは黙って部屋に上がっていく。彼は、決して母を許さない。部屋を出たのは、ただ単に 空腹でたまらなかったからだ。それから、どのくらいの日が過ぎたのかは不明だが、とうとう父が帰ってくる。すると、チャールズと妻が一緒の部屋にいる。「チャールズ、ここで何してる?」と訊かれ、「ニュースを聞いたので、お祝いに来ました」と言うが、これは恐らく嘘。以前、アダが「3日したら来て」と言われ、母に会った時、チャールズ宛の手紙の投函を頼まれた。チャールズは、その手紙に応えてやってきたのであって、お祝いに来たわけではない。父は、妻に「息子はどこにいる?」と訊き、子供部屋だと言われ、さらに、事態を悪化させたのでモナを解雇したとも聞かされる。モナの解雇は母の過剰反応なのに、事情を知らない父は、すべてプレスコットのせいだと思い込む。そこで、自ら躾けようと、プレスコットの部屋に直行する。ドアには鍵が掛けられ、「ドアを開けなさい」と命ずるが、返事はない。「聞こえないのか、ドアを開けて」「話しかけたら、返事するんだ」。応答なし。父は、ついに怒った。「お前の遊びには、うんざりしてヘドが出る。私は父親だ。だから、しかるべき敬意を払え!」。それでも、反応ゼロ。「返事をせんと… ドアを開けんと、これまで一度も使わなかった鞭を喰わせるぞ」「3つ数える」「1・2・3」。父はドアに体当たりする。4度目で鍵が壊れ、ドアが開く。プレスコットはガウンのままだ(2枚目の写真)。父は逃げまどうプレスコットを捉まえ、髪をつかむと床にねじ伏せる。頬をぶち、服を着ろと言いながら右手を引っ張ると、プレスコットが苦悶の叫び声を上げる(3枚目の写真、写真は引っ張られた腕)。あまりに痛がるので、父は、それ以上何もできない。ここで第2部は終わる。プレスコットは、常に「癇癪」を起こし、計略を練って復讐に出る。モナの解雇は最大の「癇癪」を引き起こし、母と訣別する。母との訣別は、単に人間的な関係の崩壊に留まらず、母が最も重視する信仰に対する離反をも引き起こす〔第3部で〕
  
  
  

ここから、第3部の「第三の癇癪」が始まる。第3部は、1919年6月28日にヴェルサイユ条約が締結され、父の館で開催された祝賀パーティの日が舞台となる。映画は、その当日の朝の準備状況の寸描を経て、プレスコットが全身鏡の置いてある主寝室に入って行くシーンへと移行する。プレスコットの右腕は黒い三角巾で吊られている。父に腕を引っ張られてケガをしたのは条約締結の前だったので、それからずっと付けていたことになる。プレスコットは鏡の前に立つと、そっと三角巾を外してみる。そして、上半身裸になると、右腕の具合を確かめるべく そっと動かす。少しは痛そうだが、腕は普通に動かすことができる。そして、レースシャツを着るのに何の支障もない(1枚目の写真、矢印は悪い方の腕のある肩)。夜になると、パリから続々と車が到着する。かなり盛大なパーティだ。ディナーの前に、招待客がシャパンやブランデーを手に談笑している。プレスコットは、一足先にディナー室に入って行く(2枚目の写真、矢印は三角巾)。先ほどのシーンから、プレスコットの右腕は三角巾が必要な状態ではないので、この三角巾はただの「当てつけ」だ〔プレスコットの「情報操作」を示す重要なシーン〕。部屋の中には、老婦人が1人座っている。プレスコットが向かい側の席に座ると、婦人は「今晩は、おちびちゃん〔Hello there, little one〕」と声をかける。プレスコットも「今晩は〔Hello there〕」と返事をする。解説でも書いたように、「坊や」とは言っていない。その後、プレスコットは、談笑の場に入って行き、母を探すと、「お腹空いた〔J'ai faim〕」と、なぜかフランス語で訴える。「あと少しよ」。プレスコットがその場を去って行く時、この日のために呼んだ女性の給仕係3人の前を通るが、そのシーンで一瞬、カーテンの近くに置かれたロウソクがプレスコットと一緒に映る(3枚目の写真、矢印はロウソクの火)。ロウソクの火のすぐ左側に赤っぽいものが見えるが、それは、窓の両側に付けられた飾り紐(カーテンを束ねる紐とは別)。映画では、給仕係の1人がうっかりロウソクを押してしまい、誰もいなくなった後で、ロウソクの火が紐に燃え移る。しかし、房は燃え上がるが、あとは細い紐なので、そのまま消えてしまう。この間30秒。「いろいろな意味がある」と書かれているが、唐突なだけで、本筋には何の関係もない。
  
  
  

ディナーが近づき、徐々にテーブルに着席する人が出てくる。プレスコットが座っていると、母が寄って来て、「あなたの席は、私と同じ向かい側よ」と言う。プレスコットが座っている場所は、主催者の向かい側なので、主賓たちの席になる。プレスコット:「ここがいいよ」(1枚目の写真)。母:「ほら、立って」。そこに、秘密会議の際に一番発言の多かった経済学者が来て、席を譲ると申し出る。そして、いよいよディナーが始まる。まず、父が立って挨拶し、演説は好きではないと断って、隣に座る妻に食前の祈りを唱えるよう頼む。しかし、母は、それをプレスコットにさせようとする(人前で話してもあがらず、教会での上演も素晴らしかったと褒める)。母としては、息子を自慢したかったのだろうが、プレスコットの返事は「No.」の一言だけ(2枚目の写真)。「短いお祈りよ」。「お祈りなんか もう信じてない〔I don't believe in praying any more〕」。映画の最初の頃、ベッドの中では、頭の中で唱えると言って穏便に済ませたが、両親との関係が断たれた現在においては、「侮辱的な拒絶」しか選択肢はなかった。「何を言ってるの?」。プレスコットは席から立ち上がりながら「お祈りなんか もう信じてない」と言い、さらに、イスの上に立つと「お祈りなんか もう信じてない」と言う(3枚目の写真)。「やめなさい!」。母の怒りに比例して、プレスコットの言葉も大きくなり、「お祈りなんか もう信じてない!!」と叫ぶように、何度もくり返す。テーブルを半周してプレスコットの前まで来た母が、「下りて、一緒に来なさい」と命じても叫び声は止まない。母は、顔を近づけ、「プレスコット、下りて!」と睨みつけると、プレスコットは「No!!」と叫び、母のこめかみを2度叩く。実体的な拒絶と同時に心理的な拒絶を示す象徴的なシーンだ。母は、血を流して倒れる〔母をぶったのは、「悪い」はずの右手〕
  
  
  

事ここに至っては、恥も外聞もない。父は、逃げるプレスコットを追う。ビリヤード・ルームに逃げ込んだプレスコットの前に、父が立ちはだかる(1枚目の写真)。この時には、用のなくなった三角巾は自ら外している。父:「来い」。ビリヤードの台まで後退するプレスコット。その時、奥でプレーしていたチャールズが、「大丈夫だよ〔It's all right〕」と声をかける。「おいで」「大丈夫、こっちにおいで」(2枚目の写真)。名目上の父と、血のつながった秘密の父との間で、プレスコットを奪い合う〔もちろん、プレスコットはそんなことに気付いていないし、名目上の父も知らないが…〕。プレスコットは、チャールズに近寄ろうとするが、父がそちらに回りこんだので、反対側をすり抜けて部屋から逃げ出す。「戻れ!」。階段を駆け上がろうとしたプレスコットは、男に捕まるが、暴れて振り切る。しかし、踊り場まで行ったところで、つまずいて倒れる。床にうつ伏せ倒れたままの姿(3枚目の写真)が20秒続き、カメラが次第にパンして、「大丈夫だよ」と言いながら階段を上がってくるチャールズを映し、暗転すると第3部が終わる。最後の「癇癪」は圧倒的だった。しかし、正直なところ、この先どうなるのだろう。父のフランス派遣は、条約締結をもって終わるので、当然、家族揃って帰国するハズだ。そうであれば、この映画の第4部は起こりようがない。ひょっとして、母が死に、チャールスが引き取ったのだろうか? しかし、チャールズもアメリカ人なので、帰国するハズだ。あるいは、さらにあり得ないことだが、夫婦は離婚し、母がプレスコットと一緒に生まれ故郷のアルザスに行ったのだろうか。しかし、2人の中は完全に決裂したので、この可能性もない。
  
  
  

そして、第4部の「新しい時代」。副題は「あるいは、私生児プレスコット」。機械が回転し、何かを印刷している。ライオンの顔がレターヘッドに印刷された用紙だ(1枚目の写真)。このライオンには、前に述べたように、『ねずみの恩返し』から得られた「教訓」が反映されている。次に映るのが、プレスコットの夢の中ででてきた「パーテルノステル」。今度は人が乗っている(2枚目の写真)。「パーテルノステル」から降りた男は、延々と階段を上る〔30秒も続く〕。そして、ガラスのドーム〔15秒、最初の夢のシーンとほぼ同じ長さ〕。その後、閣僚らによる具体的内容不明の会議が2分続く。ようやく、一人が、「到着されたようだ。我々も行こうか」と声をかける。今度は、階段を下りるだけで、また2分。広場の中に軍人が整然と並んでいる。ロケ地は、ブダ城の王宮の中心にある広場(80m×60m)だ。兵士の軍帽は、なぜか かつての大日本帝国陸軍のものと似ていて、いわゆる鉢巻が赤、星章は六芒星(陸軍は五稜星)。ソ連の第二次大戦当時の赤軍兵士の軍帽にも似たものがある。兵士の背後に詰めかけた群集から歓声が上がり、独裁者プレスコットを乗せた車が広場に入ってくる。車に乗っているのは、坊主頭で髭を濃く生やした中年の男性。宮殿の少し手前で車を降りる(3枚目の写真)。右に映っているのはベレー帽をかぶった少女。プレスコットは3秒しか映らないのに、この少女は20秒も画面を占領する。何を言いたいのか全く分からない。最後に「感想」。映画の原題が、『独裁者の少年時代』なので、これは現実なのかもしれないが、日本での公開名『シークレット・オブ・モンスター』だと、このシーンは、第3部の最後に倒れたプレスコットの頭を過ぎった「幻想」だとも解釈できる。先に書いたように、アメリカ人の10歳の少年が帰国すれば、ヨーロッパのどこかで独裁者になることなどあり得ないので、「10歳の少年の描いた幻想」だと思った方がしっくりくる。その場合には、副題の “bastard” は「私生児」ではなく、「まがい物」の意味で使われているのかもしれない。
  
  
  

     T の先頭に戻る                    の先頭に戻る
     イギリス の先頭に戻る               2010年代後半 の先頭に戻る

ページの先頭へ